心を耕す 

花鳥風月~美しい自然の移り変わり~
豊かな地球の恵みを敏感に感じ、絶妙な香りの配合を表現してきた先人たちの繊細な感性により培われてきた日本の香文化。それは、自然との共生を大切にし、様々なものを調和させ、新しいものを生み出す日本人の美意識そのもの。そんな日本人の美意識をはぐくむ「日本の美しい自然の移り変わり」を、本コラムでお届けします。

大雪に入り日に日に寒さが身にしみいる今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。

渓声山色

(けいせいさんしき)

これは道元禅師が、谷川の音や山の色という無心のあり方こそが仏の清らかな身体である、ということを説いてくれている禅語でありますが、どこかこの言葉が自戒への言葉として心にしてこの一年を意識して過ごしておりました。

それは、意識して自然の移ろいというもを味わい楽しみながらも、自分自身もその流れに身をおく、ということでした。

外へ外へ!あふれでるエネルギー

▲2025年8月末 奈良県天川村にて

暑さもお彼岸までといわれるように暑さは少しずつ和らいできた9月初めですが、いつものように山の中にはいり樹木をみていると花も葉っぱも繁茂(はんも)し、エネルギッシュな気で満ちています。

下草含め勢いよく伸びてくるので雑草等を刈らないと、山道もどこへやら。

西風

初秋の涼気を運ぶさわやかな西風が吹きはじめると夏の暑さを祓うかのように秋が訪れ、徐々に暑さも和らいでいきます。

雨風が強く吹きすさぶごとに、気温も徐々に低くなり、樹木の葉も色づきはじめました。

きれいに赤に染まる葉もあれば、

黄金色に染まる葉も。

この時期に山々で色づいていく紅葉を愛でるのが好きなのは、木々の葉が周囲の目を気にして同調するのではなく、各々が好きなように、好きな時に色づき、好きな色の濃淡で色づいていくからです。

▲足元をみると、こんなにも色鮮やかに。

それは、まるで人生を謳歌しているようで、それぞれが自由に好きなように、感じるままに生きているようにも感じます。

そして、吹く風に自分の身を委ねるかのようにそっと脱ぎ捨て葉を落としていきます。

その際、葉を落とすときに躊躇することなどはあるのでしょうか。

『この風じゃなきゃ嫌だ』
『強風すぎて怖い』
『そよ風だと勢いよく葉を落とせないよ』

そんな声が野暮ったく感じるほど、彼らをみていると何も躊躇もすることもなく、ただただ吹きすさぶ風にふうぅ〜と身を委ねるかのようにそっと手を放しているように感じ見えます。

その姿には清く生きる様をみせてくれているよう。そして、一回の突風でいっきに葉を落としていくのではなく、そよ風のような優しい風が四季の移ろいをゆるやかに移行してくれているのです。

凍てつく寒さにも

季節は移ろい、木枯らしが吹きすさび、気づけば体感温度は都内でも10度前後になっていくと、人間は凍える身を覆うかのようにどんどん洋服を着重ねていきます。

一方、木々を見るとあれだけ葉が茂っていたのに幹と細く伸びた枝だけに。

『まるで裸で寒くはないのか?と、問いかけてくるのは人間の愚かな問いだ』と、叱られているかのように、震え上がるほどの寒さの中でも堂々とした姿をみせてくれます。

以前までは葉がない樹木を見るとどこか心細く感じてしまっていたのですが、ここ数年は逆に、真の強さを感じてなりません。

それは、木の内部の脈々たる強い生命力を感じているからなのでしょうか。

目に見えるもの、見えないもの

さて、今宵は師走の満月の夜。

香を焚きながら、自分の内面とゆっくり深く向き合ってみてはいかがでしょうか。

見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮れ

(新古今和歌集:藤原定家)
(現代語訳:あたりを見渡すと、桜の花はもとより紅葉の彩りもないけれども 入り江にある苫で葺ふいた漁師の粗末な小屋にも秋の夕暮れがあり、趣がある)

これは日本の精神である「寂び」のこころをよく表現された歌として有名な藤原定家の和歌になります。

枯れ果てて沈んでしまうのではなく、枯れ果てた中からまた生きようとするものがでてくる、その情感を「寂び」となり、日本では室町時代を堺に侘び寂びの世界観が文化、芸術にも表現されるようになりました。

この情感の背景には“目に見える部分が全てではない”ということを先人たちはわかっており、それを大切にせよというのが侘び寂びという文化にまで体現され現代のわたしたちにも教え継いでくれている、そう感じてやみません。

ついつい私達は目に見えるものが全てであり、そこにばかり意識も向けてしまいます。それが間違いであり悪しきことという意味ではなく、目に見えるものの内側(目に見えない部分)にも意識を向けてみるということを説いてくれているようにも感じます。

この実態がなく捉えようのない心を考察するうえで、今回季節を通じて自然がその真意を表してくれているように思いました。

私たち人間にあてはめてみると、「目に見えるものの内側」とは、自分の内面である「心」。この実態がなく捉えようのない心を考察するうえで、今回季節を通じて自然がその真意を表してくれているように思いました。

表層面からは見えない

葉が枯れ落ちて枝・幹だけでもどこかチカラ強く感じたのも、この表層面からは見えない土の中に手がかりがあるように感じています。

落葉樹は、自ら落とした葉が土に還ることで養分になり、自らの肥やしになります。これは私達人間にも通ずるでしょう。

そこで思い出したのが、「奇跡のリンゴ」で有名な木村秋則氏のエピソードです。

農薬の影響で体調を悪くする奥様のために、周囲の反対を押し切って無農薬・無施肥のリンゴ栽培に11年かけて成功された木村氏。自害をはかろうとした苦しみの極限で、奇跡的に出会ったドングリの木を見たとき、彼はハッと気づきました。

瀕死状態のリンゴ畑の土は、硬くひんやりとし、根も弱々しい。一方、ドングリの木の足元の土は、雑草が生い茂り、手で掘るとやわらかく湿っていて、独特の香ばしい香りがする豊かな土でした。

木村氏は言います。

「私がそれまで一生懸命に見ていたのは、幹や葉など木の上の部分だけです。
(中略)
しかし、大切なのは木の下の部分、見えない部分だったのです。」

「木は根っこから土の栄養を吸い上げます。土が豊かなら、木が健康になるのは当然のことです。」

(「奇跡を起こす、見えないものを見る力」より要約抜粋)

彼は、目に見える枝や葉ばかりに気を取られ、肝心な根っこや土のことをすっかり忘れていたのです。

心は目で見えない

木村氏はこの気づきを、人間の「心」に重ねています。


自分の心を掘ってみる

心は、目で見ることができません。数字でも表せませんし、形にすることもできません。心と同じように、土のなかも見ることができません。

(中略)

自分の心を掘ることは難しいけれども、やろうと思えば、いつでもできることです。それは、過去を振り返ることだからです。

(中略)

農薬や肥料を与えた畑の土は、自分から栄養を取りにいかなくてもいいので、植物の根も細くひ弱です。(中略)しかし、何も与えていない畑の土は、自分たちで栄養を作るためにバクテリアなどの微生物が活発に動き、植物はその栄養をもらおうとして、太く力強い根を伸ばしています。

(木村 秋則. 「奇跡を起こす 見えないものを見る力」より一部抜粋)


自然が教えてくれる

冬は日照時間も少なくなり、寒さが人間の心の閉塞感を生み出すこともあります。

現代の便利な時代ではSNSなどで外の世界は手軽にやすやすと見れるため、外の世界にばかり意識が向けられ、せっかくの肝心な自分自身を蔑ろにしてしまいがちです。

木村氏が豊かな土を見つけたように、私たちも、目に見えない自分の「心」の土壌に意識を向け、過去を振り返り、優しさを掘り起こすことが、厳しい寒さの中でも揺るがない強さに繋がるのではないでしょうか。

自分の内なる土壌を耕す

今宵の満月の夜は、お香を焚きながら、静かにご自身の内側へ意識を向けてみてください。お香の煙が揺らめき、やがて消えていくように、あなたの心の表面的な喧騒も静まっていきます。


表層面から目に見えない「土」が植物の命を支えるように、私たち人間も、目に見えない「心」という根っこによって生かされています。


この一年であなた自身が落としてきた様々な経験の「葉」は、きっとあなたの心の土に還り来年を生き抜くための豊かな養分となっているはずです。

外の寒さが身に染みる時こそ、内なる強さの源である「心」という土壌を丁寧に耕し、満月のように静謐で満ち足りた時をお過ごしください。

カテゴリー: 1-日々是好日、日々是香日, 月の満ち欠け, 花鳥風月 パーマリンク