心の柱とは

花鳥風月~美しい自然の移り変わり~
豊かな地球の恵みを敏感に感じ、絶妙な香りの配合を表現してきた先人たちの繊細な感性により培われてきた日本の香文化。それは、自然との共生を大切にし、様々なものを調和させ、新しいものを生み出す日本人の美意識そのもの。そんな日本人の美意識をはぐくむ「日本の美しい自然の移り変わり」を、本コラムでお届けします。

夏の日盛りに木陰の恋しい季節となりました。この写真は、先日久しぶりに伊勢神宮の内宮に御詣りに行った際、まるで天照大御神が顔をのぞかせていただいているようにも感じるほど、燦々と太陽の光が降り注いでいました。

7月も中旬が過ぎ二十四節気では小暑を迎え、日は徐々に短くなっていきますが、暑さはこれからが本番となる時期です。

都会のビル群の中にいると気が滅入るほどの酷暑ではありますが、自然の中に目を向けると、青々とした青葉が涼しさを感じさせてくれます。

 

とかく、夏に向かって厚みを増す葉には、緑濃く繁りゆく躍動感を感じ、暑いとうだりながらも、どこか夏になると気持ちが高まりますし、何よりも清々しい気持ちになります。

 

蓮始開(はすはじめてひらく)

“清々しい”といえば、この時期は蓮の花。冬の寒さの後に咲くの花や、の花の開花が待ち遠しく感じるように、夏はの花の開花に心踊ります。

 

蓮の開花期間は約4日間といわれています。

 

花弁の開閉を繰り返し、4日目の午後には花びらはすべて散ってしまいます。

 

4日間の花の命が短いのか長いのか・・・、人間の時間の尺度からとらえると儚さを感じてしまいます。

 

また、大輪の花を精一杯咲かせきったんだ!!と言わんばかりに、花びらを全て散らす姿もまた美しく感じてしまいます。

 

 

泥に染まらず

泥の中から生じ、凛とした美しい花を咲かせる蓮の花。

蓮は泥より出でて泥に染まらず

蓮にまつわる有名な諺でありますが、周りがいかなる汚れた環境であろうとも、それに染まることなく、清らかさを保つということを説いてくれています。

 

そもそも蓮の花は、きれいな水ではなく泥水の養分を吸ってこそ、大輪の花が咲くのだそうです。

その姿から釈迦は、“泥(困難や悲しみ)があればこそ、そこから立ち上がったあとには清らかな大輪の花(人生)があるのだ”と説きました。

そんな蓮の花に勇気づけられるかのように、蓮の花がどこかいつも心の中にあり、大切にしている心のお守りでもあります。

また、このような蓮への強い想いもあり、Juttoku.の1番最初にできたお香は【蓮凛】でした。
(ありがたいことに、販売を始めてから早10年以上経っていますが、Juttoku.の中で人気のある香りでリピート購入率も一番高い商品になっています。)

 

新たな魅力に

そんないつも身近に感じ、心のなかに蓮がいつもあるにもかかわらず、不思議なことに、今年は今までとは違う側面に魅了されました。

それは、この華麗な蓮の凛とした佇まいにある内に秘めた強さを表す茎です。

 

凛々しさの後ろにあるもの

『蓮凛』と名をつけていたほど、蓮の“凛”とした姿に魅了されていたにもかかわらず、いかに、この“凛”とすることが難しいことかをを学ばせてもらった経緯が今年はあったからなのでしょうか。

 

支える

というのも、今年は個人的な活動の一環として、奈良県天川村である事業の建設に携わらせてもらっていました。村の人たちと伐りだした檜を、大工さんたちが建設していく現場に今年は幾度となくいました。この建設の過程で垣間見たのが、柱の存在でした。

強度のある柱をしっかりと組み立てないと、上からのしかかる重量を支えることができず、ぐらつくものに。それだけ、しっかりと“支える”ということに力が必要だというのを感じ学んでいました。

 

それもあってからか、今年は“花を支える”『茎』ばかりに目がいってしまいました。

 

『蓮の花の大きさに対して、ほっそりとすうっと伸びるこの“茎”は見た目によらず、なんて屈強なのだろうか。』

そう、心の中で問いかけてしまいました。

 

心の柱

さて、今宵は文月の満月の夜。

香を焚きながら、自分自身のがどのような状態になっているのか、心の中を観察してみるのはいかがでしょうか。

これだけの大きな花を支えている茎は、見方によっては、“”と同じように感じ見えます。

世界で最も古い木造建造物

」で思い起こされるのが、法隆寺の五重塔。飛鳥時代の建立以来、何百年ものあいだに何度も地震にあっているにもかかわらず、一度も倒壊したことはないとされていますが、この強さの秘密は建物の中心にある「心柱(しんばしら)」にあるといわれています。

仕組みは、塔の中心にある「心柱(しんばしら)」の周囲は吹き抜けになっており、心柱が他の構造と接しているのはいちばん上の屋根の部分だけ。各階の庇(ひさし)は下の階の庇(ひさし)に間接的に乗っているだけで、構造は階ごとに独立している、といわれています。


▲この1300年以上も前の建築技術は現代にも息づいており、あのスカイツリーにもこの仕組みが用いられているというのだから驚きです。

この心柱が、地震や強風に遭ったときに塔の揺れを抑える方向に働くことで、揺れの衝撃を分散させて、各階の揺れは塔全体としては打ち消しあうというのです。

また、約1200トンもある構造体を支えられるように中心の柱である心柱にすべて固定しているものかと素人発想では考えてしまいますが、そうではなく、あえて“ゆらぎ”を生み出す緩さ(ゆるさ)にこそ強さの特徴があるといいます。

 

ごまかしの心を見透かされ

また、一方で、柱といえば、かれこれ6年ほど前に、個人的に人生の師匠と仰ぎ見る方から「お前の心の柱はなっておらん!!!出直してこい!」と強く叱られたことも、走馬灯のように思い返されます。

この時は、あることがきっかけで、気づけば4時間以上もの説法をいただいていました。しかし、話の最後に、自分が発した自分のごまかしの言葉に、心の中を見透かされ、その方の勘気に触れたのです。あまりの剣幕に怖れを感じたのもありますが、他方、自分の未熟さが露呈したと痛感し、いい年した大人が大粒の涙をボロボロとこぼし、泣きおめきながら、車を運転して帰ったのだけは今でもはっきり記憶にのこっています。

 

心の柱とは

こうして今振り返ると、あのお叱りをうけたのは人生の大きなターニングポイントだったようにも感じます。

「心の柱がなっておらん!!!」と叱られたものの、そもそも“心の柱”とは何を意味しているのか?は、その方に問いかけることはせず、自分の中で咀嚼することが続いていました。

今振り返ると、あの時の心の内は「原因は外にあり、自分の中にはない」と外を責める思考が実は内在していたこと、そして、何かにすがろうとする心の弱さがあったのだと思います。

自分では気づけない黒さ・弱さを目の当たりにし、それ以来、そういう自分の弱い部分にも目を背けず、無視せず、『そういう自分もいるよね』と受け入れることを意識しはじめました。

最初は『自分はなんてだめな人間なんだ』と責め立てることをしていたのですが、そうすると結局全てを否定しまうようになり、負の思考のループにはまってしまう感覚に陥り、辛くなるようになり。

そこからある時から、『そういう部分もあるよね〜』ぐらいにあえて認めて、さらっと受け入れ流すぐらいがちょうどよい気がしました。

それは、前述の法隆寺の五重塔の「心柱(しんばしら)」の強さの特徴『揺らぎ』があると示してくれているように、“こうでなければいけない!”と言わんばかりにしっかり固定されるのではなく、多少ぐらついたとしても『そういうときもあるよね〜』とあえて、その揺れに共鳴するぐらいが、力も分散され、結果的に自分らしく、そして、伸びやかにいられるのではないのでしょうか。

あの時以来、自分で感じる“心の柱”を強く念頭におきながら歩んできましたが、蓮を眺めていると、あの時のお叱りの言葉に含まれてる意味をようやく咀嚼できたと実感し、何よりも、肩の力を抜いて物事を捉え対処できるようになあり、ぶれなくとも、しなやかな揺らぎを保てる心の柱に少しずつなっているという変化・成長に気づきました。

 

人生をなぞる


『凡人の心は蓮華のつぼみの如く、仏心は満月の如し』
(弘法大師「秘宝曼荼羅十住心論」より)


弘法大師空海は、人は様々な悪い心のはたらきにより、迷い苦しむことも多いが、そうした人の心を蕾(つぼみ)のふくらみをもった蓮華にたとえられ、やがてこの蕾も清浄な花を開かせていく、と喩えれました。

 

人間は日々の生活の中で心の中は汚されていきますが、本来、人間の心の本質は清浄なものであり、仏性を開顕される可能性をみな備えているとされ、そうした未完成な私達の心に対して、仏心はかけることのない満月である、と説いてくれています。

 

空海が1500年以上も前にこの言葉を残してくれていますが、“人間の本質的な心”の部分というのは時代が違えども通ずるものがあるのですね。

 

ごまかさない

状況はそれぞれだと思いますが、たとえ辛くても、苦しくても、その時をあえて味わい、感じ、受け入れる。その渦中は、重苦しく感じたり、暗く感じたり、どこに進めばいいのかと迷い苦しむかもしれません。

でも、その気持ちや感情をごまかさない

その心の状態をごまかさずに向き合うことで、『あれ、勝手に感じていたほど、そんな恐れることはないな』など、意外と冷静に捉えることができるのだと思います。

だから、どこか不安や怖れなどの負の感情を抱いている時は、自ずと肩が狭まりだんだんと猫背のようになってきてしまいますが、ごまかさずに“ありのまま”を受け入れることができるようになると、気持ちもどこか軽くなり、背筋が伸びてきます。

ごまかさないということは、感覚としては、勝手にずっと息を止めて苦しい!となっている自分に、息を“吐く”ことを許してあげる感じ。止めていた呼吸を吐くだけで、今度はすぅっと新しい空気を吸うことができる、そんなシンプルなことなのかもしれません。

あの時、あの方が仰った『心の柱』の真意というのは、残念ながら確かめることができないのですが、凛とまっすぐに伸び上がり、風に揺られながらきもちよくその風にあわせてゆらいでいる蓮が、そっと優しく諭してくれているような気がします。

今宵もどうぞすてきな満月の夜をお過ごしください*

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