香を聞き、明鏡止水

Juttoku.便り
心に深い安らぎを与えてくれる「美しいカオリ」を、自然と調和する「美しいくらし」に、をコンセプトにもつJuttoku.。四季の美しい日本にいながら、自然と調和する暮らしのなかで、日々様々な出逢いや学びに恵まれます。それは、自然の時間の中に自分を置くことで感じることや、自然をつうじて学ぶ日本の美意識、そして旅先などで見聞することなど。本コラムでは、Juttoku.の折々の暮らしをお届けします。

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明鏡止水

寒風の吹く日が増え、今年も残りわずかとなりました。ついこの間まで暑さをどうしのぐかに頭を悩ましていたにも関わらず、今となっては寒さをどう凌ぐかに苛むばかり。季節の変化、自然の移り変わりを体感できる喜びもさることながら、時の流れの速さにも驚くばかりです。

ここから個人的なお話となり恐縮ではありますが(また、このようなことをこのような場で申し上げるのも躊躇いもありますが)、実は今年の夏ごろより仕事の量を控え、少しお休みをいただいておりました。

生きていくと様々なことに直面していくのは世知辛く感じることも・・・。家族の病などに長年向き合ってきたものの、どこか片手間になったまま真剣に向き合うことができずにダラダラと何年もの年月を重ねてしまっていたような反省もあり、しばらくの間、無理わがままを言って、じっくりと家族と向き合う時間をいただいておりました。しかし、その時間はおのずと自分自身と向き合う貴重な時間にもなり、長年苛まされていたことが減り、明鏡止水の心境に立ち返ることができたかのように感じています。

 

水のように落ち着いた平静な心

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明鏡止水。この言葉の起源は中国の伝承・寓話にあるそうなのですが、この言葉の真意を知ると奥が深いとただただ頷くばかりであります。

 

塵がつくと物事がはっきりと見えなくなる

明鏡止水は、「明鏡」と「止水」という二つの言葉で構成されています。まずは、明鏡について。

 

鏡がよく磨かれていれば塵や垢がつかない。それらがついてしまうのは鏡が汚れているからだ。塵がつくと物事がはっきりと見えなくなる。立派な人と長く過ごしているとよく磨かれて過ちをしないようになる』

 

ある師匠に弟子入りをしている二人の弟子の会話のやり取りの中の一節になります。弟子の一人は悪事をはたらき罰として足を切り落とされる刑を課せられたもの、もう一人は、宰相という地位につくもの。 身分、地位は明確な違いがあり、宰相は自分を見下したり、同等と考えるもう一人の弟子へ不満を口にしたところ、足を切り落とされたほうの弟子が上記のような返答をしたという伝承・寓話からの一説です。

 

 

水のように落ち着いた平静な心

もう一つの「止水」という言葉には、このような物語が。

孔子の弟子である常季(じょうき)は、王駘(おうたい)という人物の元に多くの弟子が集まっていることに不服を感じていました。自分が仕える孔子のほうが博学で立派で素晴らしいのに、何故、ただ悟っただけである王駘に多くの人が集まるのか、それを孔子に聞いたそうです。

 

すると、孔子はこのように答えたそうです。

それは心の静けさのためだ。人が鏡がわりに映して見ようという水は、 流れる水ではなくて止まっている水である」(荘子「徳充符篇」)

つまり、王駘という人物は、まるでじっと止まっている水のような落ち着いた静かな心をもっているから、鏡代わりになる静かな水面が人々の心の鏡になり、自分の心を見たいという人々の心を彼をつうじてうつしだされるからである、ということを仰ったのでしょう。

この「明鏡」と「止水」という言葉が一つになり、くもりのない鏡と波立たない静かな水のように、心にやましい点がなく,澄みきっているという意味の「明鏡止水」という言葉が生まれたそうです。

 

 

 

荒波だつ心をみつめる

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明鏡止水が表す情景を鑑みると、今までの自分の心がいかに曇り、そして荒波たっていたのかと顧みてしまうばかりです。

こうして今の仕事を始めて今年で8年目になりましたが、始めたきっかけである「お香をつうじて、心安らかな時間を提供するお手伝いをしたい」にもかかわらず・・・、肝心な自分自身がまだまだその心境を心得ていなかったと反省していました。

家族の病の狭間のなかで個人的にも体調を完全に崩していた8年前に比べては、すこぶる元気になり心のバランスもよくなってきたと思っていましたが、きちんと自分自身と向き合うと、うわべをとりつくろうとしていた自分がいるのにも気づき、ようやくその状態を素直にみつめることできました。
(見つめることには、正直な話、とても勇気がいりました。自分はそうではない、認めたくないエゴの自分も垣間見えたり。自分ひとりでは何もコントロールすることができない家族の病のことなどもあったので。)

 

 

静寂な時間を慈しむ

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荒波だつ心を落ち着かせたいのであれば、はてはて・・・どうすれば・・・・・と思いながらも、日々の慌ただしい事柄やそれに相重なるように様々な感情や雑念などにおそわれる中、朝・晩の香を焚きながら何も考えない時間というのを多くとるのだけは日課とし、気づけば完全な習慣になっていきました。

そんなある時、ふと気づいたのが、意識して静かな時間をとって、その時間を楽しむように心がければいいだけのことだと。

 

「無常感」と、世俗から脱俗の空間

そう気づいたときに、思いだした文章がありました。

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行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

これは有名否鴨長明の『方丈記』の一説です。鴨長明が書いたとされるこの時代は、まさに「戦乱・混乱の時代」でありました。鴨長明自身もまた、その時代の影響をうけ、自らの立身出世などの落胆や挫折を経験しており、様々な経験を通じて彼が感じえたもの、また「自然災害」にも見舞われることがおおかった当時の社会背景が見事にうつしだされており、「無常感」という日本人ならではの見方がうつしだされております。

 

この動乱の時代だからこそ悟りえた心境なのか。この「無常感」という達観した心持ちというのは、もはや、「自我を減却し、天地自然と融合していく」という東洋の価値観、日本人の価値観へとも通じていくものなのかもしれません。

 

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当時の人々(特に武将や文化人など)は、時として世俗(世の中)から脱却したいがために人里離れた自然豊かな山里で隠居することも考えたことでしょう。

 

しかし、そうすると経済的に生活することができないと理解していた人々は、発想の逆転から、日々の暮らしの中で自然そのものを生活の中、暮らしの場へと取り込むことをしていたといいます。そして、自分たちの屋敷の庭の一角に、四畳半の方丈の間を作り、意図的に山里のような隠家を作ったそうです。とてもすてきな発想でですよね。

 

この空間に入るときは、世俗の様々な悩みやしがらみなど様々なものを部屋の外にすべて置き捨て、祓い清めた心持ちで入り、自我を減却し、瞑想や心静まる時間を楽しみながら、本来の自分に戻るひと時を楽しんでいたといいます。

 

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山にても憂からむときの隠家や
都のうちの松の下庵 
(『雪玉集』)

これは、雅楽の師匠である豊原統秋が、屋敷内の庭の奥にある松の大木の元に隠家としての山里庵を作り、そのことを歌ったものです。 意味としては、「山の中にいてもなかなか脱俗の気分になれない。そうなればいっそのこと都の中の松の下に庵を結んで、そこで隠者としての時間をもとう」という感じでしょうか。まさに、そのことを歌っており心境を感じることができます。

 

 

居ながらにして自然と一体化する

ストレス社会と叫ばれるようになり、ストレスを抱えることがもはや当たり前の世の中になってきておりますが、時代は違えども、ストレスを感じる「心のありかた」というのはどの時代でも考えられてきた大きなテーマだったのかもしれません。

中世の時代の人たちのように、家の敷地内に別空間を作るというのは、世界からはウサギ小屋に住んでいるとも揶揄されている都会の中では、かなり無謀な試みになってしまいますが、意図的に自然を暮らしの中に取り入れ、居ながらにして自然と一体化するということは現代の世の中でも行えることであります。

華道の原点は自然の野山の風景を部屋の中に取りこむように、花や草木を活けて飾ったといいますが、そのように花を家の中に飾ったりするの一つの方法であると思います。

 

お香も自然そのもの

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しかし、もっと手軽にできるのは香を焚くことではないでしょうか。

草や木や根の部分などからできているお香もまた自然そのもの。火にくゆらすことで発せられるかぐわしい香りがその空間を彩り、そして、ゆっくりとくゆらぐ煙のように、焚かれているその時は静寂な空間へと誘ってくれます。

香を焚いているときは、まさに、山里の中で自己と向き合っているかのように、本来の自分に戻れる時なのかもしれません。

 

 

 

香を聞き、明鏡止水

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香では、香りを嗅ぐとは言わず、聞くと言います。それは、「心を研ぎ澄ませてお香の本質に迫る」というような意味もありますが、私はまさにその香木をはじめとして、香りが何を伝えようとしているのかを言葉では語られないその本質に心の耳を傾けるようなことにも感じています。

「香りを聞く」そのものを楽しむためにも、やはり心を研ぎ澄ます、いや、明鏡止水の心へと立ち戻ることが必要なのかもしれません。

 

 

日々是好日

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ざわつく心でいると、周囲で起こることや家族の病や自分自身のことでさえも、時として苛立ちや悲しみ、はたまたあきらめの境地に至ることもあります。しかし、落ち着いた心を保つと、発せられない相手の声や自分自身の心の声にもきちんと耳を傾けることができ、自分を責める感情なども消え、今あるその状態そのものに素直に向き合い、感謝できるようになりました。まさに、日々是好日になりつつあります。

 

「幸せ」は、永遠と探し求めていかなければいけず、遠い先にあると思っていたのですが、実は、“今ここ”にあるものなのかもしれない、とようやく気付くことも。

 

 

静まった心の境地にようやくなれたからなのか・・・・長々雑文で恐縮ですが、このような場でありのままの心根を露わにしてしまいましたが、今日からまたJuttoku.が大切と感じている自然の声もこの場を通じてまたお伝えしていければと思っています。

最後まで目をお通しいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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