花鳥風月~美しい自然の移り変わり~
豊かな地球の恵みを敏感に感じ、絶妙な香りの配合を表現してきた先人たちの繊細な感性により培われてきた日本の香文化。それは、自然との共生を大切にし、様々なものを調和させ、新しいものを生み出す日本人の美意識そのもの。そんな日本人の美意識をはぐくむ「日本の美しい自然の移り変わり」を、本コラムでお届けします。
彦星と織姫星
7月にはいったものの、長い梅雨がどことなくうっとうしく感じてしまう今日この頃。
7月7日の七夕の日も、雨が少しでも上がるといいなぁと空を見上げていたものの、『あぁ、これは催涙雨(さいるいう)だ・・・。』と嘆くかのようなあいにくの雨模様。
催涙雨というのは、七夕伝説において彦星(牽牛)が織姫(織女)が当日会えなかった悲しみが雨になるるという意味です。
(もう一つの意味もあり、それは無事に会えたとしても別れなければいけない悲しみの涙ともいわれています。)
こういう表現を残している古の日本人はすごいなあと思いつつ、こう毎日降っている雨でも「彦星と織姫が流している雨なのかしら」なんて少しでも思うだけでも、雨夜も少しちがうように感じます。
暦においては
太陽暦になってからは七夕が七月になりますが、天体の動きでは旧暦(太陽太陰暦)におけるひと月遅れの8月7日のほうが適していると思います。
星が東の空に毎日四分ずつ早く上がっていくので、8月のほうが彦星とされる”牽牛星“も織姫とされる”織女星“も、そしてその間を隔てる天の川も8月7日のほうがより高く空に見えるとされています。
夜空を眺める
Photo by Free Nature Stock from Pexels
東京にいると高いビルに囲まれ、また夜になっても白昼のように明るいと、空を見上げてもどことなく星が少し見えるか見えないかぐらい。
一方で、奈良県天川村で空を見上げると上から星が降ってくるのではと思ってしまうほどのダイナミックに感じます。
特に夏の夜空は最高です。
運が良ければ、流れ星もいくつも見えるといっても過言ではないほど。
神社近くから見るのでも十分にたくさん星が見えると思っていたのですが、村に生まれ育ったご家族の方たちに聞くともっと大きくきれいに見える場所がある!!と。
前にそこまで連れていってもらったことがあるのですが、神社があるエリアから車で約20分ぐらいはなれた同じく天川村の中にある一か所。よりまた少し山道を上がっていくのと、そこはもう過疎化してしまい・・古民家が少しあるかないかな場所ですが、そこで見上げる空もまた格別です。
清少納言も
「星は、昴。彦星。夕星(ゆうづつ)。よばひ星、少しをかし。尾だになからましかば、まいて。」
Photo by Neale LaSalle from Pexels
清少納言もまたこのように星について書き残しています。
この文章は、「日(太陽)」「月」「星」「雲」をそれぞれ描写されているなかの一節になりますが、清少納言が夜空に見える星の中で、彼女が美しいと思ったものを並べたもの。
昴、彦星とされる”牽牛星”、夕星(ゆうづつ)は宵の明星の金星、そして、よばひ星は“流れ星”を指しているそうです。
この昴(すばる)は、ひとつの星ではなくいくつかの星が集まって星団になっているものをさしているそうで、「プレアデス星団」と欧米では呼ばれています。
清少納言がはたして本当にどこまで星のことをわかっていたのかは定かではないにせよ、同じようにこの星空を眺めていたのだと思うと、心躍ります。また、時間を忘れてしまうほどただただ眺めていられます。
「銀河鉄道の夜」
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眺めているとふと昔読んだ宮沢賢治作の「銀河鉄道の夜」を思い返しました。
主人公である「ジョヴァンニ」がある日様々なことがあった夜に、丘の上にいると突然大きな鉄道が現れ、気がつくとその列車に乗車し、そこから親友の「カンパネルラ」と共に銀河の世界を探訪するというお話。
当時は子供ながらにどことなくSFの世界にも感じ、その真意がきちんとわからずじまい。でも、再度読み返してみると、大人になっても何度も読み解きをしたくなる、そして同時に吸い込まれる世界に魅了されます。
宮沢賢治はこの物語を通じて何を伝えたかったのか・・・、そこには様々な解釈があり、それらを読みなるほどなぁと思います。ただ、物語を通じて何を伝えたかったのか、というよりも、この作品の中で語られている言葉に魅せられます。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「何がしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでも
それが正しい道を進む中でのできごとなら、峠の上りも下りもみんな
ほんとうの幸福に近づく一足ですから。」
「誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばんしあわせなんだねえ。」
「幸せ」って何だろう?
人生という長い道のりのなか、人は“幸せ”を探しながら歩き続けいるのかもしれません。
前へ進むことだけでも辛いと感じてしまう“登り道”があったり、はたまた、軽々と楽しく進んでいける道、同じ道でも様々。
今自分が進んでいる道は本当に正しいのか?これが本当に私の道なのか?
2019年も半分が過ぎ、長いじめじめとした梅雨のなかでふと”人生”について考えてしまう方もいらっしゃるのではないでしょうか。
そう考えるのがダメとかではなく、満月の夜というのは何かこうして”省みる”ことを促してくれるようにも感じます。
自分が今進んでいる道が正しいのか?
正しいって一体何なのだろう?
その瞬間、その時は一体何が正解さえもわからないかもしれません。
「誰だって一番よいことをしたら幸いなんだね」
それでも、宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」に書き残してくれているように、その瞬間、その瞬間で自分が一番正しいと思って選んだ道ならば、それが私たちのそれぞれの「幸せの道」なのだと思います。
さて、今宵は満月の夜。
香を焚きながら、自分が進んできた道を肯定的に省みながらも、これからも自分が”正しい”と思える道を進められるように気持ちもリフレッシュしてみてはいかがでしょうか。
一方で、今、幸せに向かう道がどれだがわからないと道に迷ってしまっていたとしたら、
人間は他人のことを思いやって行動し、よい結果を得たときに、心からの喜びを感じるものである。その喜びこそ、人間愛に基づく本当の「幸せ」なのである。
宮沢賢治の言葉が説いてくれているように、他人を思いやって行動してみる。
相手が喜んでくれたら、それが自分にとっても何よりも喜びになり、それが実は一番の「幸せ」であるとも。
至極の人間愛ですが、実はそこに“幸せ”があるのかもしれないですね*
今日も、明日も、今この瞬間から“しあわせ”を感じながらまた生きていけますように*すてきな満月の夜をお過ごしください。
追伸
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「銀河鉄道の夜」の序盤に先生がクラスの中で生徒に『銀河』について説明しているこの表現が好きです。
「ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを巨きな乳の流れと考えるならもっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油の球にもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと云いますと、それは真空という光をある速さで伝えるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮んでいるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでいるわけです。そしてその天の川の水のなかから四方を見ると、ちょうど水が深いほど青く見えるように、天の川の底の深く遠いところほど星がたくさん集って見えしたがって白くぼんやり見えるのです。」
想像もはるかに超えた大きな宇宙の中に住んでいる「地球人」である私たちは、いかに小さいかを感じさせます。