花鳥風月~美しい自然の移り変わり~
豊かな地球の恵みを敏感に感じ、絶妙な香りの配合を表現してきた先人たちの繊細な感性により培われてきた日本の香文化。それは、自然との共生を大切にし、様々なものを調和させ、新しいものを生み出す日本人の美意識そのもの。そんな日本人の美意識をはぐくむ「日本の美しい自然の移り変わり」を、本コラムでお届けします。
枯れ葉舞う季節となり冬の気配を感じる折、気づけばもう2021年も残り1カ月半となりました。
過ぎ去るとあっという間。風が吹くたびに、時の速さに刹那さを感じてなりません。
一方で、吹きあがる風にまるで身を任せるかのように、揺れる紅葉した葉はいつ枯れ落ちても構わないと言わんばかりに一瞬見えるその晴れ晴れしい姿に目がとまります。
そして、葉が迷いなく風に乗り身をゆだねるように枯れ落ちていく姿に思い焦がれ、
久々に標高800M長の山奥にまで紅葉を愛でに足を運んできました。
喧騒とした都会の中から標高高い山の上にいると、縛り付けられるものから解放される爽快な気持ちに。そんな中、この言葉が駆け巡ってきました。
閑坐聴松風
(心閑かに座って、松風の音を聴く)
一切の雑念を捨てて、静かに座って耳を済ませば澄み渡った音が聞こえくる。
枯れ落ちていく葉はもしかしたら何も求めずそこに佇み、来るべき吹く風の音を感じその風に委ねているのでは。であるのであれば、自らも閑かに佇みたいとおもい、しばらくの間ゆっくり静かに座って眺めていました。
すると、だんだんと己の内の中に静寂さがもどったからなのか。まるで問いかけられてくるように「心を丸く」と聞こえ、見せられるようになりました。
しかし『心を丸くと言われてもね。』とどこか釈然としない己がまた立ちはだかるようにでてきました。それは、まるで吹き飛べる風がきているのに『この枝にまだしがみついてやる!』と抗っているようにも。
でも、山頂から河川へと歩みもどし、流れる水をみてはたと気づきました。
心月輪
(心は満月そのものです。)
恥ずかしながら、自らも「心月輪~満月に想う。五感の磨き方~」と6年前に書き残していたにもかかわらず、『心を丸く』の真意を思い出したのです。
忘れているつもりはなかったけれども、所詮は世俗的な人間なんだとつくづく思いましたが、それもまた人生なのかもしれないと。恥ずかしながら、丸さが欠けていびつに、そして角々しくなってるのに気づきました。
移りゆく 初め終わりや白雲の あやしきものは 心なりけり
これは、「常に心は変わるもの。どこで変わって、どこで戻るのかわからない。心の仕業だけは予測がつかない」という意味の歌ではありますが、心は水と同じように、丸い器に入れれば丸くなり、四角い器に入れれば四角くも。そして、淀みに入れば自らも淀み、清浄されれば清らかさにもどる。
川を眺めながら、「心を丸く、丸く」と呟きました。
すると、まるで心の中に溜まっていたゴミなのか。心のなかに無自覚なままにできていた心のトゲや角がとれていくかのように、だんだんとすっきり流れていく感覚に。
それは、さっきまで木の枝についていたいなどと執着していた思いさえもどこへやら、と感じるほど潔さが、川の水とともに流れていく枯れ葉の姿に重なり見えました。
『あぁ~すっきり。』
さて、今宵は霜月の満月の夜。香を焚きながら、心の中に溜まった汚れを吐き出し、心に丸さをとりもどしてみてはいかがでしょうか。
上述の「心月輪」は良寛さんが書き残した言葉です。この言葉には、「心月孤円、光万像を呑む」という中国の禅師の言葉にあるように、仏心・無心は孤高で欠点がなく、その輝きは一切を包んでいるという意味であります。
この「心月論」を意味しているのも、人間的な概念を突き抜け無心にまで行きついた心はすべての対象に自由に輝く、満月そのものであると説いてくれているのでしょう。
ただ、今回思ったのは、ここに行きつく過程で得た経験や喜怒哀楽あふれる感情が全てゴミであるかのような意味ではなく、それもまた肥しになるのではと。
それは自然の樹木たちがそれを教えてくれています。彼らは自ら落とした葉が土に還りことで自らのまた養分になり、自らの肥やしになっているのです。
無心に立ち還るかのように、心を丸くしていくと、そこには土壌が肥えていき、心も平らかに、真っすぐと伸びていける、秋の山々が教えてくれているようにも感じました。
今宵もどうぞすてきな満月の夜をお過ごしください*