花鳥風月~美しい自然の移り変わり~
豊かな地球の恵みを敏感に感じ、絶妙な香りの配合を表現してきた先人たちの繊細な感性により培われてきた日本の香文化。それは、自然との共生を大切にし、様々なものを調和させ、新しいものを生み出す日本人の美意識そのもの。そんな日本人の美意識をはぐくむ「日本の美しい自然の移り変わり」を、本コラムでお届けします。
中秋の名月
9月にはいってから、日に日に朝晩と涼めいてきて、秋風が心地よくなりました。
そして、昨日は中秋の名月でもありました。
雲の隙間からみえる丸々とした姿、そこには夏に見えてた神々しい月の光ではなく、どことなく控えめな静かな光を放つ月のようにも見え、同じ月でもこうも季節によって違うものなのだなと感慨深くおりました。
地球は動いている
月が季節によって違うように見えるのは、天体を知っている方からすれば当然のことなのかもしれませんが、あまり詳しくないので、少しだけ調べてみました。
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(あまりうまく説明できないので概略だけではありますが)
地球は南極点と北極点を結ぶ「地軸」が23.4度傾き、自転をしながら、1年かけて太陽のまわりを公転します。一方で、月も同じように自転をし、公転をしており、私たちは地球上から太陽の光を反射している月を見ていることになります。
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月が「夏は低く、冬は高く」見えるのも、太陽を軸に、地球・月の自転、公転と地球の地軸によって太陽が空高く上がったり、低くなったりするから。
こうして秋は「中秋の名月」をはじめとして月を愛でるのも、秋は月の高さが夏と冬の中間で空気も澄み、気候も心地よいことから月見に適した季節であるというのもうなづけます。
月に思いをはせる
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Juttoku.でもこうして毎月満月の夜にメルマガを配信しておりますが、月の満ち欠けの自然のリズムに合わせることを心掛ける、それはきっと古の日本人がつちかっていた自然と一体となり暮らしていたものを少しずつ自分たちの体に呼び起こしながらその感覚を自分たち自身もとりもどしたいという思いもあります。
そして、同時になぜか月を見ているとほっとします。
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西洋では月は人々の体調のリズムを崩し、心理状態を混乱させる”不吉”の象徴とも揶揄されますが、日本では古くの文献や和歌を読み直してみても、月をうたっている歌も多くあり、昔から月を愛でていたというのがわかります。それは縄文時代にまで遡り、月を自然の神のひとつとして神聖視していた、その名残が生き続いているという説もあるほど。
日本人にとって月がどことなく身近に感じ、めでたくなる気持ちというのも今にはじまったわけではないのですね。
かぐや姫の物語
こうして毎夜空を見上げては、月を見ることで一日を終えられる喜びもかみしめるとき、ふと数か月前から「かぐや姫」の話が気になって気になってしかたがなくなりました。
2013年に上映された高畑勲監督の「かぐや姫の物語」も当時映画館で観ましたが、映画の終盤では心の奥底からあふれ出る涙をおさえきれず、涙をただただ流していました。それは、心温まる“感動”というよりも、自分自身に大きく問い掛けられているような心の悲しみにも当時は感じました。
でも、当時は「いい映画だった~」というところで終わってしまい、数か月前から無性にこんなに心を揺れ動かされた「かぐや姫」が問い掛ける意味というのは一体何だったのだろうと気になってしかたがなくなりました。
姫の犯した罪と罰
映画のキャッチコピーになった「姫の犯した罪と罰」というのもとてもキャッチ―であり、かぐや姫はどういう罪があり罰をうけたのか・・・これらをあらためて問う日々がはじまりました。DVDでも再度鑑賞したり、他の方々が解説されている書評を読んだりと。
そして、先日いてもたってもいられず「高畑勲展」にも足を運んできました。
高畑監督の生前の生い立ちから携わってきた作品の数々について、1000点以上の作品資料から辿る初の展覧会であるだけに、一つ一つの作品への思いやこだわり、そして緻密な作画やコンセプトなども深く知ることができます。
日本の一番古い物語ともいわれている『竹取物語』をどうして描こうと思ったのか、そこには若かりしころにすでに原点なるものがあることもこの展覧会では高畑氏の直筆のレポートがから読み取ることができますし、作品をつくるにあたり、人物考証から、時代考証まで多くのことに時間をかけて作られる、そして、どうしてこれだけデジタル化が進み高度なCGによる映像化も可能な時代にあえてあのような作風にしたのか、一つ一つ高畑氏の頭のなかを垣間見ることができる展覧会でした。
そこでようやく何か腑に落ちるものがありました。
清らかで透き通った光だけの月から地球へ
高畑氏とのインタビューの本を買って読みましたが、その中にも「『罪と罰』というコピーはぼくにとっては迷惑でした」と答えており、ジプリ側が考えてきたものに泣く泣くそこにOKをだしたとも。本来高畑氏はそこに大きく訴えかけるという思惑はなかったそうです。
なので“姫の犯した罪と罰”ばかりに注目してしまい、“清らかで透き通った光だけの月の住人”であるかぐや姫が罪を犯し、罰せられる場所がこの“地球”であることの真意にばかり意識がいきがちでしたが、実はシンプルに“地球の美しさ”を諭してくれ、“生と死”、そして、“生きる喜び”ということに大きく問い掛け教えてくれており、そこが現代の私たちの心に大きく訴えかけるものがあったのではないかと思いました。
かぐや姫が罪を犯してまでも知りたかったこと
とは言え、そもそもかぐや姫が犯した罪とは何だったのでしょうか。
それは、高畑氏の「かぐや姫の物語」の企画という文章に、同じく高畑氏も“『かぐや姫はいったい何故、何のために地球にやってきたのだろうか』という疑問を考えているうちに、俄然興味が湧いてきた(上記文章より一部抜粋)”と記されています。
そして、高畑氏の企画文章中には下記のように記載されていました。
かぐや姫は月からやってくる前に、概略以下のようなことがあったのではないかと推測するに至った。
かぐや姫は、清浄な光に満ち溢れる月の王の娘である。
姫は地球から帰還した女(羽衣伝説の一人)から、地上のことを聞いて彼の地に憧れる。女によると、
輝きに満ち、清浄だが色のない月とちがい、
地球は色彩に満ち、青い海があり、魚が泳ぎ、
地上には草木が茂り、水が流れ、花が咲き、果実が実り、
大小じつに様々な生き物がいる。
そしてその上に雲が飛び、風が吹き、雨が降り注ぐ。
人の子供も、他の生きものと同じように、
愛らしく、楽しく、それはそれは素晴らしい。
けれども、清らかで美しく、年をとることもなく心配事もない月の人とちがい、
地上の人々は喜怒哀楽に身を焦がして、愛別離苦の情に振り回されている。
不老不死どころか、彼らの限りある命さえ、生老病死に苦しめられる。
さらに、人はしばしば醜く意地悪く嫉妬深く、争いを好み、
さらに他人をだまし、裏切るという。
このように、人間に関しては否定的に語られたにもかかわらず、
かぐや姫には地球がひどく魅力的なところに思えただけでなく、
女がほのめかす人間の「喜・楽」や「愛」どころか、
「哀」にさえ心惹かれ、
どうしても行ってみたくなる。
禁を破って帰還女性の記憶を呼び覚ましたことが発覚し、
姫は地上の思い出によって女を苦しめた罪を問われる。
そして罰として、姫は地球におろされることになる。
(『ロングアルバム かぐや姫の物語』より一部抜粋)
私たちが“当たり前”だと感じるこの世界が、月の住人であるかぐや姫にとっては羨ましくも感じる世界だったのです。
生命力溢れる地球に生きることの悦び
今宵は、長月の満月の夜。
香を焚きながら、自分の周りをあらためて見まわしてみてはいかがでしょうか。
満月の美しさ、秋風の心地よさ、そして、鈴虫の鳴き声。
朝になると、まぶしくも神々しく感じる太陽が大きく登り、風が吹き木々が揺れる。
こんなにも生命力溢れる地球に生まれ、生きることができることはどんなに喜ばしいことなのか。
そう思うと、何かに不満を感じたり、嫌に思うことが小さく感じ、どうでもよくなる、もっとこの地球上に生きるという喜びを見出しながら生きたほうがいいのでは、そんな感覚さえ芽生えてくるのではないでしょうか。
喜びと悲しみこそがこの世で生きること
かぐや姫は地球におりてきたものの、翁がヒメのためにと選んだ自然から乖離された宮中での暮らしや身勝手な人間の醜さなどを経験していく中で、月を見上げ無意識にも「SOS」をだしてしまった。
そして、月の使い達が迎えに来る旧暦8月の満月の夜。ヒメはまだ月に還りたくない!と涙ながらにも懇願するも、連れ戻されることに。
「いやだ、まだ還りたくない!!」と泣きじゃくりながら懇願するかぐや姫の姿からは、自分の死を迎えるときがそうなるのではないかと重なりあい、まるで自分の死を迎えるときのように心が乱れます。
生老病死をまぬがれないこの世に対し、月は不老不死の国。
地上のすばらしさを満喫することのないまま、
そして自らの「生」を力一杯生きることのないまま、
帰らなければならなくなってしまったことを悔やむ涙
これからより秋も深まり、自然の移ろいの美しさも楽しむことができますね。
後悔することなく自らの「生」を力一杯生きる、
そこからまたみえてくる日々のありふれた日常の世界も変わって見えるかもしれませんね*
今宵もすてきな満月の夜をお過ごしください*