花鳥風月~美しい自然の移り変わり~
豊かな地球の恵みを敏感に感じ、絶妙な香りの配合を表現してきた先人たちの繊細な感性により培われてきた日本の香文化。それは、自然との共生を大切にし、様々なものを調和させ、新しいものを生み出す日本人の美意識そのもの。そんな日本人の美意識をはぐくむ「日本の美しい自然の移り変わり」を、本コラムでお届けします。

春らしい陽ざしを感じる季節になりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
先日、ふと思い立ち、予定を変更して久しぶりに奈良県桜井市の長谷寺を訪ねてきました。
四季折々の花に彩られることから「花の御寺(みてら)」とも呼ばれるこちらでは、境内に入るとこの季節ならではの花が出迎えてくれました。

それが「福寿草(フクジュソウ)」です。 木々に咲く花とは異なり、早春に雪を割って顔を出すことから「春を告げる花」といわれ、力強く地表を彩ります。
都会ではなかなか目にすることのないこの花を、初めて知ったのは天川村の山の中でした。
村の方々が「今年もきれいな福寿草が咲いてくれた」と嬉しそうに話す声を聞くうちに、春の訪れを象徴する大切な景色となりました。
移ろいゆく季節の胎動

そして、本堂へと続く長い登廊(のぼりろう)を一段ずつ進む時間もまた、季節の移ろいを感じさせてくれる贅沢なひとときです。

3月中旬とはいえ、市街地よりも山間に位置する長谷寺には、まだ冬の名残が漂っています。 ふっくらと膨らんだ蕾、ようやくほころび始めた三分咲きの花――。
それらはまるで、厳しい寒さを耐え抜き、静かに、けれど確実に春の光を吸い込んでいるかのよう。冬から春へと、命が震えながら移ろいゆく季節の胎動を、肌で感じるような豊かな時間でした。

そして、何十段もの長い登廊を登り切った先、舞台から見渡すこの景色は、やはり息をのむほどの絶景です。

あと数週間もすれば、この視界のすべてが鮮やかな桜色に染まり、春の頂点を迎えることでしょう。
今はまだ、深く静かな杉や檜の常盤色(ときわいろ)が山を包んでいますが、その凛とした緑のグラデーションもまた、華やかな春を待つ今この瞬間だけの、贅沢なコントラスト。

移ろいゆく季節の呼吸を、この静寂の中で感じます。
鮮明に脳裏に焼き付くお姿
さて、長谷寺といえば、日本最大級の木造仏として知られる「十一面観世音菩薩様」です。
(※御本尊は撮影禁止のため、その尊くも慈愛に満ちたお姿は、ぜひ長谷寺の公式サイトなどでご覧ください。)

10メートルを超えるその尊顔を仰ぎ見るのは数年ぶりでしたが、初めてこの御前(みまえ)に立った時の興奮は、今も鮮明に脳裏に焼き付いています。
見上げるほどに高く、慈悲に満ちたその大きさは、単なる造形物としての迫力を超え包み込まれるような安心感とともに心に迫ってきます。

それはきっと、千年以上の昔、この場所を訪れた人々にとっても同じだったに違いありません。

薄暗いお堂の中に浮かび上がる、黄金に輝く巨大な観音様を仰ぎ見た人々は、どれほど救われるような思いを抱き、その神々しさに魂を震わせたことでしょうか。
ふと思いたって立ち寄った長谷寺で抱いた感動と感謝の心を胸に、次の場所へと移動しました。
東大寺へ

次に向かったのは奈良市内の東大寺でした。

折しも東大寺では、二月堂の「修二会(しゅにえ)」が執り行われていました。かつて「お香水(おこうずい)」という言葉の響きに惹かれて訪れて以来、なかなか再訪の機会を掴めずにいましたが、ようやくこの春、足を運ぶことが叶いました。
本行のクライマックスである「お水取り」当日は大変な混雑が予想されるため、あえてその前日に参拝してきました。 静寂の中で舞うお松明の火の粉を、じっくりと目に焼き付けたいという思いもありました。

参拝に先立ち、奈良国立博物館で開催されていた特別展「お水取り」へ。

行法の歴史や奥深さに触れてから二月堂へ向かうと、気がつけば陽が沈む間際、世界が黄金色に染まる時間となっていました。

二月堂舞台から望む夕日は大仏殿を優しく包み込み、その背後へと沈んでいく。

言葉を失うほど神聖な光景を背に、本堂で静かに祈りの時間を過ごしました。

離れがたい心地よさとは裏腹に、時刻は18時を迎え、本堂が閉められる時間に。

春の夕暮れのまどろみに身を委ねていたい思いと、火の躍動を待ちわびる昂(たか)ぶり。

そんな相反する心地よさを抱えながら、お松明を拝む場所を確保するため、名残惜しく階段を降りました。

下へ降りる頃には、陽光は深い藍色へと溶け込み、冬の枝先が影絵のように夜の帳(とばり)に浮かび上がります。

冷たさを増した風に、「火」の刻(とき)の接近を実感するひととき。次第に集まる人々も不思議と静かで、皆がただ、祈りの儀式をじっと待ちわびている――。そんな、濃密な静寂に包まれた夜の訪れでした。
待ちに待ったその瞬間

そして、いよいよ「お松明(おたいまつ)」が舞台へと力強くせり出されました。写真や映像では幾度となく目にしてきましたが、実際にこの目で見届ける光景は、実に、見事なものでした。

本来、木造建築にとって火は最も忌むべき存在。それにもかかわらず、燃え盛るお松明を掲げた童子が舞台を疾走し、鮮やかな火の粉を舞い散らせる姿は圧巻です。

長さ約7メートルものお松明を一人で操り、裸足で駆け抜けるその一挙手一投足は想像を絶する世界で、ただ息を呑むばかりでした。

闇を切り裂く黄金の光が大きく掲げられるたび、夜のしじまに大量の火の粉が降り注ぎます。

この火の粉を浴びると一年を無病息災で過ごせるとの言い伝えもあり、火の粉が舞うたびに周囲からは感嘆の混じった興奮の声が上がっていました。

闇が再び静寂を取り戻す頃には、冷えていた身体もいつの間にか内側から温まり、言いようのない多幸感に包まれていました。
千二百年以上もの間、一度も絶えることなく続けられてきた「不退の行法(ふたいのぎょうほう)」。
闇を切り裂くお松明の火が消え、再び静寂が戻った二月堂を仰ぎ見れば、そこには世界の平穏と春の訪れを祈る、静謐なひとときが流れていました。

ふと夜空を見上げれば、そこには冷たくも温かく、煌々と輝く星々が私たちを見守っているかのように感じました。
千二百年前もこの場所で同じように火を掲げ平穏を願った人々を、この星たちはきっと今と同じ眼差しで見つめていたのでしょうか。
ふとした思いつきで動いた一日の終わりに、星の輝きがより多幸感に包み上げてくれ、静かに、天川村へと還りました。
内なる星が導き、自分の内側光を灯す
さて、今宵は弥生の新月。
新月の静寂の中、Juttoku.のお香を焚きながら、星を仰ぎ観ながら自分を慈しむひとときを、楽しんでみませんか。

天川へと無事に辿りつき、安堵してまた夜空を見上げ星空を眺めていると、「星が語りかける」ということもあるのかもしれないと、ふと一年前の一月の夜のことを思い出しました。

凍てつく空気の中で同じ天川の夜空で仰ぎ見た、あの鮮烈な光。何かを訴えかけるように瞬いていたひとつの星がありました。
普段なら「綺麗な夜空だな」と見上げるだけで終わるところですが、その夜の星影はあまりにも印象が強く、心に深く刻み込まれたのです。

あの時の胸の高鳴りは星の輝きに呼応するようにして、自分自身の奥底に眠っていた何かが静かに目を覚ました瞬間だったのかもしれません。
星の導き
不思議な体験はさらに続きます。星空を仰ぎ見続けていると、耳の奥に「ほうりん」という言葉が響きました。

初めて耳にするその響きと、意識の中に浮かんだ円い輪の情景から、それが「法輪(ほうりん)」を意味しているのだと直感しました。
その直感の糸をたぐるようにして、導かれるままに携帯の画面に表示されたのは、斑鳩(いかるが)の「法輪寺」の名でした。
まるで行き先を指し示されているかのように、翌日にはその門を叩いていたのです。

そこで出会ったのが、法輪寺に安置されている「十一面観世音菩薩様」でした。その時初めて、その尊名をはっきりと胸に刻みました。
あの夜に仰ぎ見た星の輝きが、内側に眠っていた古(いにしえ)の歴史や智恵への渇望を呼び覚ましたのでしょうか。
それ以来、吸い寄せられるように様々な歴史文献を紐解いたり、飛鳥の地をはじめ様々な歴史の地へ足を運ぶフィールドワークを重ねる日々が始まりましたが、不思議とその先々で、十一面観世音菩薩様との再会が待っていました。
すべてを救いへと導く

十一面観世音菩薩とは、頭上の十一のお顔であらゆる方向を見渡し、人々の苦しみに応じて姿を変えながら、すべてを救いへと導く慈悲の象徴です。お寺によってお顔立ちや立ち姿は様々ですが、今回訪れた長谷寺も二月堂も、図らずもその御本尊は十一面観世音菩薩様でした。
かつて、あの夜に偶然目にした一筋の光が、時を経て、巡り巡って今、こうして慈悲の御前へと導いてくれている。そんな目に見えない不思議な縁(えにし)を、今はただ、しみじみと感じずにはいられません。
宇宙の悠久な時間を超えて
真砂なす 数なき星の 其の中に 吾に向ひて 光る星あり
(正岡子規)
正岡子規が病床で詠んだこの歌は、海岸の砂のように無数にある星々の中で、他でもない「この私」に向かって光を投げかけてくれる星があることを伝えています。
星の光は、気が遠くなるほど遙かな天空の彼方から、何百年、何万年という時間をかけて私たちの瞳へと届くそうです。 今こうして見える星の輝きも、もしかすると宇宙の悠久の時間のなかでは古の人たちが同じように眺めていた星と同じなのかもしれません。
そして、同じように、星もまたこの地上に生きる人間を同じ眼差しで見守っていたのでしょう。
はるか遠い先から、星はずっと私たちに語りかけ続けてくれていたのかもしれません。

憚らずも、個人として初めて星からの語りかけに気づいたのが去年が初めてでした。
星からの語りかけに、無意識のうちに何かを感じ、それに呼応するように行動する。それは言葉を介さずとも通じ合う、静かな「星との対話」であったように思います。
こうした星との対話で過ごしたこの一年は、内側に眠っていた魂の記憶が呼び覚まされるかのような感覚にも重なり、同時に行く先々で出会った十一面観世音菩薩様との対話を重ねる時間は、そのまま「自分自身の本質」に意識を向ける時間にもなりました。

それは、外側の騒がしさに惑わされることなく自分という軸を、静かにかつ確固たるものへと整えていく大切な心の「浄化」の道のりとなりました。この歩みを通じて、いつの間にか自分を縛り付けていた古い価値観や迷いが消え、ありのままの自分を受け入れ、信じる力が内側から満ちてくるのを感じています。
星のかけら

すべての物質をつくるもとになる元素たちは、ことごとく星の中で合成され、星が超新星爆発というかたちで終焉を迎えた時、宇宙空間にばらまかれますが、私たち人間も、その「星のかけら」が集まってできているのですから、脳の中に、はるかな宇宙進化の記憶が刻みこまれていると言っても言い過ぎではないのです。 (佐治晴夫氏)
別世界のように感じていた天体を、どこか身近に引き寄せてくれる佐治晴夫先生は、著書の中で「私たちは『星のかけら』が集まってできている」と説いておられます。

そんな自分たちの一部でもある星からの語りかけ。
それは今の自分に必要な「癒し」であることもあれば、魂の奥底に眠っていた「記憶の呼び覚まし」や、星になった大切な故人からの「メッセージ」であることもあるでしょう。

大切なのは、空を見上げるその瞬間に、星と自分との間に結ばれる一対一の絆を信じること。
正岡子規が詠んだように、無数の星々の中で「吾(あれ)に向ひて」光るその一筋の光に、そっと耳を澄ますことではないでしょうか。
銀河を包む透明な意志

忙しない日常の中では、つい自分を「その他大勢」の一人として扱い、その声を置き去りにしてしまいがちです。けれど、正岡子規が詠んだように、無数の星々の中で「吾(あれ)に向ひて」真っ直ぐに光を届けてくれる存在が必ずあります。それは身近な家族や友人かもしれませんし、あるいは大切な故人や、遙か天空に輝く「星」そのものかもしれません。
なぜなら、私たち自身もまた、宇宙の記憶を宿したかけがえのない「星のかけら」に他ならないからです。
われらには要るものは銀河を包む透明な意志、巨きな力と熱である
(宮沢賢治:『農民芸術概論綱要』の結びにある言葉)
日本では一月の新年、二月の立春、そして四月の新年度と、三段階に分けて「始まり」を積み重ねていくことができます。一気に咲くのではなく、じっくりと開花の準備を整えていくその歩みは、私たちが自己を深め、内なる「星の記憶」を宿した本当の自分へと立ち還っていくプロセスそのもののように思えてなりません。それは、内側に眠る「透明な意志」を呼び覚まし、新しい旅路へ踏み出すための大切な準備期間なのです。

いよいよ、新年度を迎えます。 この「新しい始まり」という旅路を前に、今夜はお香を焚き、ゆらめく香煙とともに心にまとった古い重荷をそっと手放してみませんか。そして、星を仰ぎ見ながら、自分という一粒の「星」からの語らいに、静かに耳を澄ませてみてください。

その静寂の中で、宇宙のひとかけらである“あなた”という「星」は、よりいっそう清らかに輝き始めるはずです。 星々が遙かな時を超えてあなたを見守っているように、あなた自身もまた、自分という尊い命を愛おしむ穏やかな時間を過ごせますように。
清らかな香りに包まれ、どうぞ佳き新月の夜をお過ごしください。
※本記事を彩る写真は奈良県天川村の夜空、長谷寺、東大寺二月堂にて、Juttoku.が心を込めて撮影いたしました
【香と共に】
今宵、この「新月」と「輝星」を焚きながら、静かにこの文章を綴りました。香りに身を委ねるひとときが、皆様の内なる星を慈しむ時間となれば幸いです。
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