随神(かんながら)のままに

花鳥風月~美しい自然の移り変わり~
豊かな地球の恵みを敏感に感じ、絶妙な香りの配合を表現してきた先人たちの繊細な感性により培われてきた日本の香文化。それは、自然との共生を大切にし、様々なものを調和させ、新しいものを生み出す日本人の美意識そのもの。そんな日本人の美意識をはぐくむ「日本の美しい自然の移り変わり」を、本コラムでお届けします。


穏やかな光に包まれ、無事に新しい年を迎えることができました。 みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

年くれぬ 春来べしとは 思ひ寝に まさしく見えて かなふ初夢
(西行)

西行は「年が明け、春がやってくるに違いないと期待して寝たところ、その通りの素晴らしい初夢を見た。正夢になってほしいものだ」と詠みました。 新しい年を迎えて早くも半月。お正月特有の賑わいも落ち着きを見せ始める頃ですが、みなさまはあの「初夢」の余韻や、新年に立てた抱負を、今どのような心地で味わっていらっしゃいますか。

お正月という「ハレ」の日から、まだ二週間ほど。そうとは思えぬほどに慌ただしく日常が動き出すと、あの希望に満ちた清々しい想いも、ついどこかへ置き去りにしてしまいそうになります。

しかし、一日のはじまりに神棚の前で静かに手を合わせると、不思議なほどにあの一月一日の澄んだ心地が静かに蘇ってまいります。


新しい年の準備

Juttoku.では開業時より、神棚を大切に祀らせていただいています。

新しい年を迎える準備として、店舗の大掃除はもちろん欠かせませんが、最も心肝(しんかん)に染まるのは、神棚の煤払い(すすはらい)をし、神札を新しくお取り替えするひとときです。

一夜飾り(三十一日)は神様に失礼になる」
「二十九日は『二重の苦』に通じるから避けなさい」
という言葉は耳にされたことはありますでしょうか。
年末の忙しい中で母がよく口にしていた言葉が今も脳裏に焼き付いています。

そんな古くからの教えが心にあるからでしょうか。年末の慌ただしさの中でも、神棚だけはしっかりと暦と向き合い、日を慎重に選びながら、一年を無事に終えられた感謝を込めて調えさせてもらっています。

そしてここ数年は、その一連の儀式の中に「しめ縄」を掛け替えるという大切な時間が加わりました。

自らの手で

というのも、三年前からいつもお世話になっている奈良県天川村の方にお声がけをいただき、しめ縄を自ら作らせていただくことになったからです。

都会にいると、しめ縄は「買い求めるもの」になりがちですが、本来は日々の暮らしのなかで自然の恵みを慈しみ、祈りを込めて自らの手で育んでいく。そんな、日本人の静かな精神性が宿る文化そのものでした。

お声がけくださった方も、かつては自分たちでしめ縄を作っていたおじいちゃん、おばあちゃんが村にいたけれど、いつしか米を育てる人が減り、気がつけば水田さえも姿を消しつつある……と寂しそうに仰っていました。

新しい年を迎えるにあたり、自分たちで育てた藁でしめ縄を綯い、神社やお寺にお参りする。そんな当たり前だった風習を絶やしたくないという想いから、この方も数年前から見様見真似に作り始めたそうです。

使用するのは、もちろんこの土地で育った稲穂の藁です

これを数本ずつ束にし、自らの掌で綯っていきます。

傍で見ていると、自然にできそうに思えてしまいますが、まさに「行うは難し」。しっかりと藁を抑え、全身に力を込めて綯い合わせなければ、しめ縄として相応しい「締(しめ)」が生まれません。縄が太くなればなるほど、より強い力と熟練の技量が問われます。

三年目を迎えた今年は、昨年よりもさらに藁の数を増やし、より太いしめ縄に挑みました。

一筋ずつ力を込めていくなかで、自然と今年一年への感謝が湧き上がり、また来年も本数を増やして太い縄を綯えるよう、それは無意識ながらも「成長」という願掛けをしている自分に気づきました。

一歩一歩、心身を研ぎ澄ませて作り上げたからこそ、完成したしめ縄への愛着はひとしおです。年末に神棚を整え、新しい縄へと掛け替えるときには、いつも以上に深い祈りがその空間に満ち、また新たな一年を歩み出す静かな覚悟が調うのを感じるのです。

清らかな空気が満ちるなか、掌から生まれた縄が神棚に収まり、新たな息吹を纏う――。
自らの手で場を清め、新たな時を寿(ことほ)ぐその一瞬こそが、言葉に尽くせぬほど深く静かな「新春の歓び」なのだと感じています。

新しきを尊ぶ

さて、今宵は奇(く)しくも、新しい年を迎えて初めて訪れる新月の夜。

Juttoku.の香を焚きながら、新しく始まる満ち欠けの巡りをただただ尊んでみる。そんな静かなひとときを過ごしてみるのはいかがでしょうか。

大きな循環のなかで

こうして今一度自らつくった「しめ縄」を見つめていると、一つの「形」が出来上がるまでの長い旅路に思いが馳せます。

春に苗を植え、秋に黄金色の稲穂を収穫し、

冬の寒さを感じはじめる頃から少しずつ準備を始めて、ようやく年末に飾り付けをし、新しい年を迎える。

私たち人間にとって、一月という月は「一年の始まり」という一つの区切りではあります。しかし、昨春から続く清らかな連なりのなかでできたこのしめ縄を見つめていると、一月一日という日は大きな循環のなかの一つの「きっかけ」に過ぎないのだと諭されているような気がしてなりません。


自然
(じねん)

古来、日本人は「自然」を「じねん」と読み慣わしてきました。

それは人間がコントロールする対象ではなく、「おのずから、ひとりでに」そうなっていくという、大いなる生命の理(ことわり)そのものを指す言葉です。

自然と対峙して「観る」のではなく、私たち人間はこの壮大な生命の営みのなかで、ただ「暮らさせてもらっている」。そんな、古(いにしえ)の日本人たちが大切にしていた精神(こころ)に、深く琴線に触れる想いがいたします。

新年となり、目標を掲げた方も多いでしょう。三週間が経とうとしている今、その目標をしっかりと携えている方もいれば、日々の奔流にどこかへやってしまったという方も、それぞれにいらっしゃるはずです。

目標を持つことは大変尊いことですが、世の中は自分の思い通りになることもあれば、ならないこともあります。

自己を貫く強さも大切ですが、時には、流れるままに身を任せることも必要なのではないか――。自然の中に身を置き、ゆらゆらと立ち上る香の煙を見つめていると、その自由なゆらぎが、言葉を介さずともそう説いてくれているように感じます。

随神
(かんながら)

――神様のまにまに、自然のままに生き、受け入れる

私たち人間は時としてすべてをコントロールし、手中に収めようとしてしまいます。その心の奥底には、何かへの期待や計算、あるいは「こうあるべきだ」という執着が潜んでいることも。

もちろん、意志を持って物事を遂行しなければならない場面もあるでしょう。けれど、すべてが思い通りに運ぶことなどあり得ません。思い通りにいかない現実に直面したとき、その執着は他者への押し付けや怒りへと変わり、あるいは深い悲しみとなって、いつしか自分でも何に怒り、何に悲しんでいるのか分からぬほど、心の闇に迷い込んでしまうこともあるのではないでしょうか。

西洋的な「自然を支配する」という考え方に対し、古来、日本人が大切にしてきた「自然(じねん)」という感性は、大いなる自然の一部として人間もそこに在るという「共生」の形でした。

この「随神(かんながら)」という言葉が今も日本に息づいていること。 近代化が進み、便利さと引き換えに自然から切り離された暮らしを送る現代だからこそ、改めて、この言葉の真意に立ち還る時を迎えているのかもしれません。

あるがままに

現代の私たちは太陽暦のなかで暮らしていますが、つい百五十年ほど前まで、この国では「太陰太陽暦」が時を刻んでいました。

奈良・天河の地では今もなお、神事は旧暦(太陰暦)をもとに執り行われています。ある村の方は、「ここには自然の暦がある。それをこれからも大切に、村の中に根付かせていきたい」といつも仰っています。

尺度としての暦はたしかに便利ですが、月の満ち欠けという「自然の暦」に呼吸を合わせる暮らしには、大いなる宇宙の生命と自分自身の拍動が重なり合うような、根源的な心地よさがあります。

新月の夜。姿は見えずとも、月はそこに在り、再び満ちてゆくための準備をしています。この壮大な生命の営みのなかに、私たちもまた生かされている――。天河の真っ暗な夜空を見上げると、そう感じずにはいられません。

その大きな繋がりに気づけたとき、強張っていた肩の力がふっと抜け、あるがままの自分をそっと受け入れられるような気がいたします。

不思議なもので抗うことをやめて「受け入れる」ことができたとき、物事は自ずと然るべき方向へと調(ととの)い、進んでいくものなのかもしれません。

今年最初となる新月の夜。 香を焚きながら、ゆっくりと深呼吸をしてみてください。「こうあらねばならない」という執着を一度手放し、随神(かんながら)の心で、この清らかな流れに身を浸してみる。

その先にこそ、きっとあなたらしい、瑞々しい一年が待っているはずです。

新しい一年も、香りと共に、みなさまの心が健やかな巡りのなかにありますよう。
どうぞ、静寂な新月の夜をお愉しみください。

※本記事を彩る写真は奈良県天川村にて、Juttoku.が心を込めて撮影いたしました。 掲載写真の著作権はすべてJuttoku.に帰属します。無断転載・転用はご遠慮ください。

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