香を聞き、明鏡止水

Juttoku.便り
心に深い安らぎを与えてくれる「美しいカオリ」を、自然と調和する「美しいくらし」に、をコンセプトにもつJuttoku.。四季の美しい日本にいながら、自然と調和する暮らしのなかで、日々様々な出逢いや学びに恵まれます。それは、自然の時間の中に自分を置くことで感じることや、自然をつうじて学ぶ日本の美意識、そして旅先などで見聞することなど。本コラムでは、Juttoku.の折々の暮らしをお届けします。

water_00339

明鏡止水

寒風の吹く日が増え、今年も残りわずかとなりました。ついこの間まで暑さをどうしのぐかに頭を悩ましていたにも関わらず、今となっては寒さをどう凌ぐかに苛むばかり。季節の変化、自然の移り変わりを体感できる喜びもさることながら、時の流れの速さにも驚くばかりです。

ここから個人的なお話となり恐縮ではありますが(また、このようなことをこのような場で申し上げるのも躊躇いもありますが)、実は今年の夏ごろより仕事の量を控え、少しお休みをいただいておりました。

生きていくと様々なことに直面していくのは世知辛く感じることも・・・。家族の病などに長年向き合ってきたものの、どこか片手間になったまま真剣に向き合うことができずにダラダラと何年もの年月を重ねてしまっていたような反省もあり、しばらくの間、無理わがままを言って、じっくりと家族と向き合う時間をいただいておりました。しかし、その時間はおのずと自分自身と向き合う貴重な時間にもなり、長年苛まされていたことが減り、明鏡止水の心境に立ち返ることができたかのように感じています。

 

水のように落ち着いた平静な心

water_00016

明鏡止水。この言葉の起源は中国の伝承・寓話にあるそうなのですが、この言葉の真意を知ると奥が深いとただただ頷くばかりであります。

 

塵がつくと物事がはっきりと見えなくなる

明鏡止水は、「明鏡」と「止水」という二つの言葉で構成されています。まずは、明鏡について。

 

鏡がよく磨かれていれば塵や垢がつかない。それらがついてしまうのは鏡が汚れているからだ。塵がつくと物事がはっきりと見えなくなる。立派な人と長く過ごしているとよく磨かれて過ちをしないようになる』

 

ある師匠に弟子入りをしている二人の弟子の会話のやり取りの中の一節になります。弟子の一人は悪事をはたらき罰として足を切り落とされる刑を課せられたもの、もう一人は、宰相という地位につくもの。 身分、地位は明確な違いがあり、宰相は自分を見下したり、同等と考えるもう一人の弟子へ不満を口にしたところ、足を切り落とされたほうの弟子が上記のような返答をしたという伝承・寓話からの一説です。

 

 

水のように落ち着いた平静な心

もう一つの「止水」という言葉には、このような物語が。

孔子の弟子である常季(じょうき)は、王駘(おうたい)という人物の元に多くの弟子が集まっていることに不服を感じていました。自分が仕える孔子のほうが博学で立派で素晴らしいのに、何故、ただ悟っただけである王駘に多くの人が集まるのか、それを孔子に聞いたそうです。

 

すると、孔子はこのように答えたそうです。

それは心の静けさのためだ。人が鏡がわりに映して見ようという水は、 流れる水ではなくて止まっている水である」(荘子「徳充符篇」)

つまり、王駘という人物は、まるでじっと止まっている水のような落ち着いた静かな心をもっているから、鏡代わりになる静かな水面が人々の心の鏡になり、自分の心を見たいという人々の心を彼をつうじてうつしだされるからである、ということを仰ったのでしょう。

この「明鏡」と「止水」という言葉が一つになり、くもりのない鏡と波立たない静かな水のように、心にやましい点がなく,澄みきっているという意味の「明鏡止水」という言葉が生まれたそうです。

 

 

 

荒波だつ心をみつめる

water_00024

明鏡止水が表す情景を鑑みると、今までの自分の心がいかに曇り、そして荒波たっていたのかと顧みてしまうばかりです。

こうして今の仕事を始めて今年で8年目になりましたが、始めたきっかけである「お香をつうじて、心安らかな時間を提供するお手伝いをしたい」にもかかわらず・・・、肝心な自分自身がまだまだその心境を心得ていなかったと反省していました。

家族の病の狭間のなかで個人的にも体調を完全に崩していた8年前に比べては、すこぶる元気になり心のバランスもよくなってきたと思っていましたが、きちんと自分自身と向き合うと、うわべをとりつくろうとしていた自分がいるのにも気づき、ようやくその状態を素直にみつめることできました。
(見つめることには、正直な話、とても勇気がいりました。自分はそうではない、認めたくないエゴの自分も垣間見えたり。自分ひとりでは何もコントロールすることができない家族の病のことなどもあったので。)

 

 

静寂な時間を慈しむ

japanese-style_00014

荒波だつ心を落ち着かせたいのであれば、はてはて・・・どうすれば・・・・・と思いながらも、日々の慌ただしい事柄やそれに相重なるように様々な感情や雑念などにおそわれる中、朝・晩の香を焚きながら何も考えない時間というのを多くとるのだけは日課とし、気づけば完全な習慣になっていきました。

そんなある時、ふと気づいたのが、意識して静かな時間をとって、その時間を楽しむように心がければいいだけのことだと。

 

「無常感」と、世俗から脱俗の空間

そう気づいたときに、思いだした文章がありました。

river_00017

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

これは有名否鴨長明の『方丈記』の一説です。鴨長明が書いたとされるこの時代は、まさに「戦乱・混乱の時代」でありました。鴨長明自身もまた、その時代の影響をうけ、自らの立身出世などの落胆や挫折を経験しており、様々な経験を通じて彼が感じえたもの、また「自然災害」にも見舞われることがおおかった当時の社会背景が見事にうつしだされており、「無常感」という日本人ならではの見方がうつしだされております。

 

この動乱の時代だからこそ悟りえた心境なのか。この「無常感」という達観した心持ちというのは、もはや、「自我を減却し、天地自然と融合していく」という東洋の価値観、日本人の価値観へとも通じていくものなのかもしれません。

 

countryside_00155

当時の人々(特に武将や文化人など)は、時として世俗(世の中)から脱却したいがために人里離れた自然豊かな山里で隠居することも考えたことでしょう。

 

しかし、そうすると経済的に生活することができないと理解していた人々は、発想の逆転から、日々の暮らしの中で自然そのものを生活の中、暮らしの場へと取り込むことをしていたといいます。そして、自分たちの屋敷の庭の一角に、四畳半の方丈の間を作り、意図的に山里のような隠家を作ったそうです。とてもすてきな発想でですよね。

 

この空間に入るときは、世俗の様々な悩みやしがらみなど様々なものを部屋の外にすべて置き捨て、祓い清めた心持ちで入り、自我を減却し、瞑想や心静まる時間を楽しみながら、本来の自分に戻るひと時を楽しんでいたといいます。

 

japanese-style_00032

山にても憂からむときの隠家や
都のうちの松の下庵 
(『雪玉集』)

これは、雅楽の師匠である豊原統秋が、屋敷内の庭の奥にある松の大木の元に隠家としての山里庵を作り、そのことを歌ったものです。 意味としては、「山の中にいてもなかなか脱俗の気分になれない。そうなればいっそのこと都の中の松の下に庵を結んで、そこで隠者としての時間をもとう」という感じでしょうか。まさに、そのことを歌っており心境を感じることができます。

 

 

居ながらにして自然と一体化する

ストレス社会と叫ばれるようになり、ストレスを抱えることがもはや当たり前の世の中になってきておりますが、時代は違えども、ストレスを感じる「心のありかた」というのはどの時代でも考えられてきた大きなテーマだったのかもしれません。

中世の時代の人たちのように、家の敷地内に別空間を作るというのは、世界からはウサギ小屋に住んでいるとも揶揄されている都会の中では、かなり無謀な試みになってしまいますが、意図的に自然を暮らしの中に取り入れ、居ながらにして自然と一体化するということは現代の世の中でも行えることであります。

華道の原点は自然の野山の風景を部屋の中に取りこむように、花や草木を活けて飾ったといいますが、そのように花を家の中に飾ったりするの一つの方法であると思います。

 

お香も自然そのもの

kemuri

しかし、もっと手軽にできるのは香を焚くことではないでしょうか。

草や木や根の部分などからできているお香もまた自然そのもの。火にくゆらすことで発せられるかぐわしい香りがその空間を彩り、そして、ゆっくりとくゆらぐ煙のように、焚かれているその時は静寂な空間へと誘ってくれます。

香を焚いているときは、まさに、山里の中で自己と向き合っているかのように、本来の自分に戻れる時なのかもしれません。

 

 

 

香を聞き、明鏡止水

dsc_0717

香では、香りを嗅ぐとは言わず、聞くと言います。それは、「心を研ぎ澄ませてお香の本質に迫る」というような意味もありますが、私はまさにその香木をはじめとして、香りが何を伝えようとしているのかを言葉では語られないその本質に心の耳を傾けるようなことにも感じています。

「香りを聞く」そのものを楽しむためにも、やはり心を研ぎ澄ます、いや、明鏡止水の心へと立ち戻ることが必要なのかもしれません。

 

 

日々是好日

river_00156

ざわつく心でいると、周囲で起こることや家族の病や自分自身のことでさえも、時として苛立ちや悲しみ、はたまたあきらめの境地に至ることもあります。しかし、落ち着いた心を保つと、発せられない相手の声や自分自身の心の声にもきちんと耳を傾けることができ、自分を責める感情なども消え、今あるその状態そのものに素直に向き合い、感謝できるようになりました。まさに、日々是好日になりつつあります。

 

「幸せ」は、永遠と探し求めていかなければいけず、遠い先にあると思っていたのですが、実は、“今ここ”にあるものなのかもしれない、とようやく気付くことも。

 

 

静まった心の境地にようやくなれたからなのか・・・・長々雑文で恐縮ですが、このような場でありのままの心根を露わにしてしまいましたが、今日からまたJuttoku.が大切と感じている自然の声もこの場を通じてまたお伝えしていければと思っています。

最後まで目をお通しいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

菊にあやかり長寿を願う、重陽の節句

花鳥風月~美しい自然の移り変わり~ 豊かな地球の恵みを敏感に感じ、絶妙な香りの配合を表現してきた先人たちの繊細な感性により培われてきた日本の香文化。それは、自然との共生を大切にし、様々なものを調和させ、新しいものを生み出す日本人の美意識そのもの。そんな日本人の美意識をはぐくむ「日本の美しい自然の移り変わり」を、本コラムでお届けします。 

dsc_0892

 

重陽の節句

9月9日は、重陽の節句。五節句のうちの一つですが、この重陽の節句は耳慣れない方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。

中国の風習と日本の風習が合わさった「節句」

そもそも、節句とは季節の折目節目、つまり“季節の変わり目”のことを意味しており、古代中国(唐時代)の暦法で定めれた季節の節目でした。

古代中国では陰陽説が尊ばれており、陽(奇数)が重なると陰になるとして、暦の中で奇数の月と日が重なる日をとりだし、陰を避けるため季節の旬の植物から生命力をもらい邪気を祓っていたといわれています。 この中国の暦の影響をうけて、古代の日本の朝廷も年中行事として定め、その風習が日本の農耕を行う人々にまで伝わり、人日(1月1日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)が五節句と定められ、宮中で邪気を祓う宴会が催されるようになったそうです。

邪気を祓い、新節を清い体で

いずれにせよ、前述したとおり節句は季節の変わり目であることにほかならず、体調をくずしやすい時でもあります。 現代は医薬が充実していますが、未発達であった古代の時代で考えれば、邪気を防ぎ健康を保って季節の変わり目を乗り切るということは切実な願いであったと思います。 そこで、季節の旬の植物から生命力をもらい邪気を祓うことが行事化され、前節までに身につけた穢れを祓い、新節を清い体で乗り越えようと考えられたのがことのはじまりです。

 

菊にあやかり長寿を願う

最大の陽数である「九」が重なるため重陽の節句といわれますが、「菊の節句」とも言われており、秋の深まるこの時期に鮮やかに彩る菊の花にあやかり長寿を願う行事が平安宮中に行われていました。

 

 観菊の宴

 

長陽の節句_菊酒」

菊を愛でながら、菊酒を呑みかわし、詩歌を詠んでは楽しむという「観菊の宴」。

菊の花と葉を穀物に混ぜて作られ、菊の花を浮かべるなどしてふるまわれた菊酒は、菊の清々しい香りと花の気品の高さによって邪気を祓い、寿命を延ばすと考えられ、互いに長寿延命を願いなが盃をかわしていたそうです。

桃の節供の桃酒、端午の節句の菖蒲酒とおなじように邪気払いとして呑まれますが、この菊酒が一番呪力が高いともいわれていたそうです。想像するにきっとこの菊酒は、お屠蘇のようなもので、ガブガブ呑むようなお酒というよりは一杯のお酒に願いを込めて呑んでいたのではないでしょうか。菊の花を浮かべるというのもなんとも風流なものですね。

 

 

被せ綿

菊

前日の夕刻に菊の花に真綿をかぶせて、庭にだしておくと、翌朝にはしっとりと朝露で菊の香りとともに真綿に染み込みます。この菊の香りもしみこんだ真綿で肌をふくと、肌が美しくなり、また長生きできるという、お祓いと長寿の願いをこめられた宮中の行事でした。

 

紫式部日記にもこの被せ綿について詠まれている歌があり、宮中の女性たちの心が今の女性にも伝わってくるものがあります。

 

 

香りで清める、それは心をも清める

 

「観菊の宴」「被せ綿」から共通してみえる菊の香り。感じ方は様々だと思いますが、菊の香りは清々しい香りで、まるで禊をした気持ちにまでさせてくれる清涼な香りです。

 

 

このごろの 時雨の雨に 菊の花     
      散りぞしぬべき あたらその香を

 

 

[この頃の時雨の雨に、菊の花は散ってしまいそうだ。 惜しいことにこの雨で芳しい香りも消えてしまうのだなあ。] この歌は、桓武天皇によって詠まれており、菊を詠んだ和歌としては最も古い歌であり、菊の香りが消えてしまうことを惜しまれている気持ちが伝わってきます。

 

長陽の節句_菊

目に見えない香りに静かに心を傾け、息づく自然の生命、自然の美を感じとる。今こそ大切にしたい心であり、心落ち着かせながらその香りを感じとることが、おそらく何よりも心を落ち着かせ、清らかにさせてくれたのではないでしょうか。

 

 

 

香に祈りをのせて

Juttoku.便り
心に深い安らぎを与えてくれる「美しいカオリ」を、自然と調和する「美しいくらし」に、をコンセプトにもつJuttoku.。四季の美しい日本にいながら、自然と調和する暮らしのなかで、日々様々な出逢いや学びに恵まれます。それは、自然の時間の中に自分を置くことで感じることや、自然をつうじて学ぶ日本の美意識、そして旅先などで見聞することなど。本コラムでは、Juttoku.の折々の暮らしをお届けします。

DSC_0892

香に祈りをのせて

お香の功徳の一つに「祈りを天に届ける」があります。
香煙にのって、あなたの祈りを天へと伝えてくれます。

今宵は、七夕の夜。
空を見上げていると、きっと彦星と織姫は祈り通じて今年も
天の川を渡って再会できたのだろうなと思うほど、
星の瞬きはとてもきれいです。

 

香をくゆらすと、心が静まり己の声に耳を傾けることができます。
そして、心の中でそっと祈りを捧げてみてはどうでしょうか。

夏もいよいよ本番。
今年の夏も、皆さまの祈りが通じる日々になりますように。
そして、Juttoku.の香が皆さまの祈りを天に届けてくれますように。

 

 

 

 

 

夏越大祓で、心身ともに清らかに

Juttoku.便り
心に深い安らぎを与えてくれる「美しいカオリ」を、自然と調和する「美しいくらし」に、をコンセプトにもつJuttoku.。四季の美しい日本にいながら、自然と調和する暮らしのなかで、日々様々な出逢いや学びに恵まれます。それは、自然の時間の中に自分を置くことで感じることや、自然をつうじて学ぶ日本の美意識、そして旅先などで見聞することなど。本コラムでは、Juttoku.の折々の暮らしをお届けします。

20160629-DSC_6477

夏越大祓

今日は、夏越大祓の日。

この半年の内に、自分自身が知らず知らずのうちに犯した罪や過ちまた心身の穢れを祓い清め、本来の清浄な心身に戻り日々の生活を営むための神事が神社で行われます。

20160629-DSC_6489

Juttoku.神楽坂店の氏神様でもる赤城神社でも行われています。

20160629-DSC_6478

境内には茅の輪が設けられ、これを3回くぐることにより身を清めます。

 

大祓とは

20160629-DSC_6477

大祓の起源は、神代にまでさかのぼります。

日本神話の中で、須佐男命(すさのおのみこと)が犯した罪により、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸に隠れ、国中が暗闇に包まれ皆が困っていたところ、天児屋命(あめのこやねのみこと)の奏上する祝詞(大祓詞)により岩戸が開き、天照大神がお出ましになられた、といわれています。

身を清める茅の輪

20160629-DSC_6476

心身を清めた後「茅の輪神事」が行われます。また、神社の境内には茅の輪が設けられており、3回くぐることで、身を清めます。

須佐男命が旅の途中、蘇民将来の家に泊まられたとき、その御礼に茅の輪を授け、その芽の霊力により悪疫を免れることを教えられたという云い伝えによるものだそうです。

 

「心身を清める」お香

DSC_0056

お香にも「心身を清める」という徳があります。

半年の区切りである今宵は、香を焚きながら、これまでの半年を振り返ってみてはいかがでしょうか。お勧めは、自ずと心に溜まってしまった悩みや問題事を紙に書き出してみること。紙に書きだすことで心の中に鬱積していたものが出て、心が軽くなります。

お香の心地よい香りが、自然とありのままの己と向き合わせてくれ、そして、煙と共に悩み事も天へと消し去ってくれます。

 

幸多き一年になりますように

20160629-DSC_6497

心の大祓をし、明日からの半年も清らかな気持ちに。
皆さまにとって残り半年も、幸多き日々でありますように、お祈り申し上げます。

 

 

長谷寺にて弁天様に

Juttoku.便り
心に深い安らぎを与えてくれる「美しいカオリ」を、自然と調和する「美しいくらし」に、をコンセプトにもつJuttoku.。四季の美しい日本にいながら、自然と調和する暮らしのなかで、日々様々な出逢いや学びに恵まれます。それは、自然の時間の中に自分を置くことで感じることや、自然をつうじて学ぶ日本の美意識、そして旅先などで見聞することなど。本コラムでは、Juttoku.の折々の暮らしをお届けします。

DSC_0956

弁天様にご縁を感じ

Juttoku.は「弁天様」にとてもご縁があり、また特に信望しております。それは、奈良県天川村の天河大弁財天社でのご縁もありますが、水の神様であられる弁天様をつうじ、日本の精神・文化にも紐づき学ぶことが多々あるからです。
(余談ですが、現在の神楽坂の店舗も「弁天町」という地名であり、近隣に弁天様を祭られているお堂があったりするのも実はお店を構えるきっかけになった一つでもあります。)

今まで全国津々浦々様々な地に行って神社や仏閣にお参りに行ってまいりました。そのお話しをお客様にお話ししたらぜひいろいろと情報を教えてほしいというお声もあったので、こちらのWEB上でもご案内させていただければと思います。

 

長谷寺にて弁天様に

DSC_0967

鎌倉の紫陽花の名所でもある「長谷寺」。過日のブログでもご案内しましたが、境内一面には紫陽花がきれいに咲き誇っており、とても美しいところでした。

 

DSC_0881

この長谷寺の境内には「十一面観音菩薩」をはじめ、「阿弥陀如来」、そして観音山には「千手観音」が祀られています。

しかし、境内を入りすぐ右手に行くと、「弁天堂」と「弁天窟」があります。

DSC_0955

 

 

弁天窟

DSC_0961

弁天堂を過ぎると、赤い鳥居が見え、洞窟の中へと誘われます。うろたえることなくそこに入り込まれてしまう不思議な空間です。

 

DSC_0956

鳥居をくぐり、洞窟の中に入ると少しひんやりとしており、薄暗いなかにも蝋燭や少しの灯りで燈された静寂な空間。

洞窟の壁面には弁天様をはじめ、弁天様に眷属(けんぞく:従事する)十六童子が彫られています。

善財童子(ぜんざい):十五童子を司る神
計升童子(けいしょう):経理・経営の神
衣裳童子(いしょう):着衣に不自由しない神
蠶養童子(さんよう):蚕・繭の神、衣服の神
筆硯童子(ひっけん):学問成就の神
酒泉童子(しゅせん):酒の神
牛馬童子(ぎゅうば):動物愛護の神
稲籾童子(とうちゅう):五穀豊穣の神
飯櫃童子(はんき):食物授与の神
金財童子(こんざい):金銀財宝・商売繁盛の神
船車童子(せんしゃ):交通安全の神
印鑰童子(いんやく):悟りと解脱へ導く神
官帯童子(かんたい):法を守る神
従者童子(じゅうしゃ):経営の神
愛慶童子(あいきょう):愛情・恋愛成就の神
生命童子(しょうみょう):長寿の神

洞窟の中に一つ一つ丹念に彫られた童子様のその姿からは、魂と申していいのか命と申していいのか・・・とにかく自然と手を拝みたくなる空間です。

そして、この洞窟内にはなんと「宇賀神様」も祀られています。
弁天様の頭部にいらっしゃるともいわれ、「人頭蛇身」でもある宇賀神様。雨を降らし穀物を育て水と富にご利益のある神で弁財天と一体となった神様であられます。
弁天様を祀られているなかでも、宇賀神様も祀られているところはなかなかないため、大変貴重です。

 

真摯な祈りが届く静謐な空間

20160627-DSC_6270

洞窟内一番奥に鎮座されていらっしゃるのが、弁天様。
静謐な空間の中に、じっと佇まれているそのお姿を間近で感じ取ることができます。

そもそも、この洞窟は弘法大師空海が参籠(さんろう)した地と言われています。つまり、この地である期間籠り、祈りを捧げていた場所であります。

弘法大師は、この地にまで来ていたのかと思うと感慨深く、またどのような祈りをこの地で捧げていたのか・・・・思いをはせるばかりでありますが、しばしこの空間にいるだけでも何か心が平安になります。

 

DSC_0958

洞窟内には、木彫りされた弁天様がおかれており、思い思いの願いや祈りをこの弁天様に書き奉納されています。

 

 

DSC_0952

 

長谷寺は「観音堂」をはじめ阿弥陀如来様が祀られている「阿弥陀堂」など大きなお堂に注目されがちでありますが、ぜひ「弁天窟」のほうまで足も運ばれてみてはいかがでしょうか。

 


DSC_0956

長谷寺

住所:神奈川県鎌倉市長谷 3-11-2
アクセス:江ノ電「長谷駅」より徒歩5分
ウェブサイト:http://www.hasedera.jp/

 


 

 

1 / 612345...最後 »